シャネルが行っている次代のクラシック演奏家を支援するプロジェクト「シャネル・ピグマリオン・デイズ」。ブランド創業者であるガブリエル・シャネルは当時、芸術家のパトロンを務め、音楽家ではストラヴィンスキーを支援していたと言われる。その精神を受け継いだこのプロジェクトは今年で15年目だ。
今回は、8月24日マチネで開かれた小井土文哉のピアノリサイタルを聴いた。プログラムは以下で、約1時間弱のロシア音楽の体験だ。途中の挨拶ではスクリャービンをその色彩感と夢の中のような世界に魅了されると評し、最も好む旨を発言。オールロシアプログラムとした背景を窺わせた。
チャイコフスキー:ドゥムカ
スクリャービン:練習曲Op42-5、練習曲Op8-12
休憩
ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲
アンコール
チャイコフスキー:四季より4月松雪草
ロシアの農村風景という副題を持つ、チャイコフスキーのドゥムカ。哀切と懐かしさ、ロシア民謡を感じさせる旋律が美しい。芯の通った小井土のピアニズムを第1音から感じる。とても端正に音楽を構築し、わかりやすく聴衆へ届けてくれる。左右のペダリングにより、デリケートな音を醸成するセンスには惹かれるものがある。
続くスクリャービンを代表する二つの練習曲。双方とも演奏効果が高いが、特にOp42-5は表示記号Affanato=喘いでのごとく、高熱にうなされたように病的な躍動感にあふれた旋律が大変色気のある傑作。数々のヴィルトゥオーゾたちが名演を残している。
小井土の演奏はというと、大変暗く鬱々としている。気怠いかのように抑えたテンポ、あえて爆発しないよう気遣いを見せるデュナーミク。第2主題での内声の強調など、このような解釈もありかと思わせた。ロシアピアニズムを代表する聴衆をエキサイトさせる悪魔的なホロヴィッツの爆演、ソフロニツキーの細部も浮き彫りにする完璧な凄演とは、方向性が異なるもの。大変内省的で独白的、自己陶酔感のある演奏だった。言うなれば江戸川乱歩の小説『芋虫』の中尉夫婦の臥所のようか。Op8-12も同様、鬱々とした印象だった。
休憩を挟んでのラフマニノフの変奏曲は、アメリカに亡命後、唯一作曲された晩年のピアノ独奏曲。和声もコンテンポラリーな響きを見せる20分の大曲だ。こちらの印象もドゥムカと同様、複雑な構成ながらクリアで分かりやすいプレゼンテーションだった。
現代への扉を開き、独自の音楽世界を作り出したスクリャービンと、ロシアロマン派を代表するチャイコフスキーとラフマニノフのコントラストが興味深い演奏会だった。一点気になるのは大変細かい部分のテクニカル面。スクリャービンの本領を発揮する後期の表現が気になる。
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