自身が優勝した仙台国際音楽コンクール審査のため、ヴァディム・ホロデンコが来日した。13日には横浜みなとみらいホール大ホールという大箱で公演。ベートーヴェンの月光、ショパンのソナタ3番という名曲をラインアップしたが、ここでレビューする11日の豊洲では挑戦的なプログラムを披露した。曲目は以下の通り。ちなみにピアノはグリッターな響きをもたらすファツィオリだ。
ショパン=ゴドフスキー/ショパンのエチュードによる53の練習曲よりOp10- 1・2・3・4・8・12、Op25- 9・11 ※25-11「木枯らし」はショパンオリジナルのエチュードに変更
スクリャービン/ピアノソナタ第6番Op62、エチュード Op2-1、Op42-5
休憩
プロコフィエフ/ピアノソナタ第6番「戦争ソナタ」Op82
アンコール
スカルラッティ/ソナタK193
リスト=ブゾーニ/ラ・カンパネラ
ラフマニノフ/前奏曲Op23-2
パーセル/グラウンドハ短調ZD221
ゴドフスキーのトランスクリプションはピアニストのための四書五経ともいえるショパンエチュードを、更に改変した難しすぎるという形容が相応しい作品群。オリジナルでは左手の動きが少ないため、特に左に声部が割かれる、もしくは左手用に編曲されている。ゴドフスキーはロマン派随一の対位法の使い手であり、他の作品にもその名人芸を聴くことができる。
全曲録音を予定しているというホロデンコ。今回演奏したのは特に左手用に編曲されたものをピックアップしている。10-3「別れの曲」、10-4、10-12「革命」がそれだ。有名なアルペジオのエチュード10-1はアルペジオが両手になり難度が3倍くらいになっている。そのため原曲から予期する速度より少々ゆるやかな演奏となっていた。また、各左手用も同様に速度が落ちている。もちろん音の密度は増しており、分厚いテクスチャーとなって聴衆に届けられる。アムランが以前、ゴドフスキーは1回の演奏会で数回のみ(回数は覚えていない)しか聴くことができない、too muchだからだ。とコメントしていたがその意味を実感した。音が分厚く、声部もたっぷりのため、耳が着いていかないのだ。それを違和感なく演奏し通すのがヴィルトゥオーゾピアニストなのかもしれないが、この日はその体験は得られなかった。オリジナルの「木枯らし」を聴いた際のすがすがしい気分は名状しがたいものであった。
続いてスクリャービンの難曲ソナタ6番だ。ホロデンコはソナタ4、5番を録音している。後期では「炎へ向かって」も同様のCDに収められている。さて、この6番は作曲者自身が“邪悪”なため公の場で演奏しなかったという曲だ。4、5番と異なり、完全スクリャービン後期の世界のため、特有の悪魔的な恍惚感に満ち溢れた官能の世界だ。ホロデンコはデュナーミクをはっきりとした幅のある演奏を聴かせてくれたが、スクリャービンの精神世界へと到達するにはあと一歩たりない。あの色香、恍惚とした半音階的主題の歌わせ方、エクスタシーへの向かい方が不十分であったかと感じる。やはりスクリャービンは色気がないとスクリャービンではないのだ。
さてここまでtoo muchな音響が続いた。プロコフィエフの代表曲の一つソナタ6番は彼らしく獰猛で破壊的なピアノ奏法を見せる。ホロデンコはというと、まるで全ての指がこの日この場所でこのファツィオリというピアノをこの時間に打鍵することが決まっていたかのように、寸分の違いもなく、一瞬のためらいもなく、とめどない川のようにこの名曲を奏でていく。今までの2作曲家とは大違いの流麗な演奏だ。愉快であり、粗暴であり、美しい。ホロデンコは豪快な曲が似合う。
アンコールもこのプロコの熱狂の余韻のまま興が乗った演奏だった。特にブゾーニが手を加え、更に煌びやかになったラ・カンパネラはファツィオリのポテンシャルを引き出したブリリアントな体験。舞い散るトリルや細かなパッセージがとても鮮やかでもっと演奏機会があってよい編曲と思わせた。
技巧的な曲は肉体的に弾けるうちに弾いておきたいと語っていたホロデンコ。次なるプログラムも楽しみだ。
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